“a world in which humans, more than humans, and multispecies are intertwined together as components of nature” —adele tan
intertwined (2) multispecies “living as they are”
「自分らしさ」と「連環」の間(はざま)で
―エコ・アート・スタジオのためにー
清水裕子
For the eco art studio:
in the interstices of "Self-awareness" and “Interconnection”
Hiroko Shimizu
ある早春の日の茶室。小さな空間に入ると、床の間には鮮やかな黄色の菜の花の投げ入れ。その奥には力強い墨跡で「百花為誰開(百花誰が為に開く)」註一という掛軸が掛けられている。
「あぁ、また春が来たんだなぁ」と、一面に広がる菜の花畑とその上を飛び回るモンシロチョウやミツバチを思い浮かべながら、軸の禅語について思いを巡らす。「春になると色とりどりの花が咲くけれども、花は誰のために咲くのだろうか」という意味である。
「誰のために」といえば、一般的に自分の種を維持するためとか、他者の恵みになるとか、主客入り混じって、こうすれば役に立つとか有利だとか、我々はつい思ってしまいがちだが、果たして禅語においてはどのような教えなのだろうか?禅語は禅問答と呼ばれるように対話形式で「我々の日常的な言語の虚構性を明らかにして、解体してゆく」註二ということで、一般常識を超えた次元の解釈であるはずだから、専門家の解釈に助けを乞うてみよう。
それによると、この問いかけは結論的に反語であり、「花は誰かのために咲いているのではない」ということだ。誰かのために咲いているのではなく、それぞれが自分らしく咲いている、そのものになり切ったありのままの姿こそが最も輝いて心地よい状態で、肝心なことなのだという。そうすることで、命を次世代につなぎ、鳥や虫や人間にも蜜を与えてくれ、他者に恵みをもたらし活かすことに結びつくということだ。註三このような連環の中で、自分らしくとは自分中心で我儘ということでなく、本来の自分の声に従って自由に、また時には、自らをその一部である自然の中で無化して自然体であることだという。
この教えには「自分らしく」と「無化する」という一見相反するような二つの状態が共存しているが、それは自分や他者との対話を繰り返し、その関係性が常に流動してゆくという世界観を表しているのだろう。その根底には、百花の存在を愛で、多様な種それぞれが自分らしく生きている命を讃え、それらが共存している営みに敬意を払うという態度がある。そういう意味で、この掛軸の問いかけは、人間の世界を超えて、より大きな世界へ包摂されているという、本来的な思考を我々に再び思い起こさせているのではないだろうか。
それにしても、花や生物の「自分らしく生きる」とは具体的にどういうことなのだろうか?彼らの感覚を実際に知ることには限界があるが、生物の「ありのまま」の生き方を「生物目線で見て」分析しようとしたユニークな研究、「環世界」という概念を参照してみたい。禅から飛躍するようだが、両者の根底には意外にも親和性があるようだ。
「環世界」は、一九世紀末にエストニア生まれのドイツの生物学者のヤーコプ・フォン・ユクスキュルが提唱した概念で、具体的な生物の観察に基づいている。彼によると、「環世界」とは、それぞれの種が彼らの知覚に従って作用して制御する、独自の空間や時間、またそのリズムにもとづく環境の中で、主体的に生成されている世界ということだ。それはまさに「自分らしく」生きるための環境と言えるだろう。そして、環世界は人間本意に解釈した単一の環境ではなく、多様な環世界が個々のシャボン玉のようなものに包まれて浮遊している状態の中で、それぞれの種が自由に自分らしく輝いて、併存しているイメージだ。
この概念は観察と分析にもとづいた科学的なアプローチで多種の環境を明らかにしようとはしているが、分野を超えたより総合的な視点によるものだと考える。彼が、「環世界は動物そのものと同様に多様であり、実に豊かで実に美しい新天地を自然の好きな人に提供してくれるので、たとえそれがわれわれに肉眼でなく心の目を開いてくれるだけだとしても、その中を散策することは大いに報われることなのである」註四と言っているように、環世界はそれぞれの独自の知覚と行動で構築される主観的な世界であるため、他の種から真に知覚することはできない(現在、科学界では技術的な展開によって、感覚も含めた解明が進んでいるというが)。註五そこで、ユクスキュルは、未知の世界へ、科学的なアプローチに加えて、鋭敏な感覚と想像力という心の目を結びつけて、それぞれの種の主観にアクセスしようとしていたと考える。
生物機械論が主流であった一九世紀末に、それまでの価値観を批判的に見て「動物はもはや単なる客体ではなく、知覚と作用とをその本質的な活動とする主体だとみなすことになるだろう」註六というユクスキュルの主張は当時としては奇異の目で見られ、実際黙殺されていたようだが、彼のものの見方には今日的な視点が貫かれている。それは多種の存在を生物からの目線で、それぞれの「生」の営みをフラットにリスペクトして、主体的に生成される複数の環境を捉えようとする態度である。このようなユクスキュルの態度が現在、科学だけでなく、哲学や人類学などの幅広い分野で横断的に注目を集めていることも納得できるし、その身体的で豊かなイメージは芸術表現にとっても、エコロジカルな思考をインスパイアする今日的なものの見方を提供してくれるのだ。
二〇〇〇年代に入って「人新世」という概念が提起された。註七これは、まだ議論の渦中ではあるが、人間という単一種が地球に地質学的なレベルで影響を与えており、さらには我々が直面する地球環境の危機が、人間主体の認識で自然を分離して、支配の対象としてきた人間中心主義と、行きすぎた資本主義の帰結だと批判的に見ている。気候危機が全ての存在の生存を脅かすまでになっている現在、喫急に解決が迫られている課題は山積みだが、その最大の要因となっている人間や社会の在り方が根本的に問われていると言えるだろう。
その中で、人間と人間以上の他種(More than Hu-
man)や多種(Multispecies)が、共に自然を構成する存在として絡まり合う世界のリアルを見つめ、彼らとの相互関係を問い直す研究や、その関係性を回復しようとする論調が人類学、環境人文学をはじめさまざまな展開を見せていることも必然と言える。註八それは、多種との連環やその境界、限界を探ることによって、未来を生きるための新たな(または本来の)人間の可能性を逆に照射するプロセスにもなるからだ。
人新世の時代に、ティモシー・モートンは、「人間ならざるもの」が「これからの人類の歴史と思想にとって重要になる」註九と考え、人間と人間以外の新たな関係性を志向する環境人文学の確立をめざしている。そのために、彼は、それぞれの種が主体的に生きて、また相互につながっているという、なまの感覚を取り戻すための芸術の実践に注目しており、実際の詩や文学、音楽、アートなどの表現を参照しながら、その感覚を捉えようとしている。モートンは生物以外の大気、水、鉱物や人工物などを含む全てが相互に絡み合って実在する状態を感受することをめざしているが、その限りない膨大な広がりを実際に把握するのは困難を極める。それはそれぞれの主体が生きる独自の主観へ迫ろうとする、さらには時空間で常に漂流するような関係の状態を捉えようとする試みだからだ。彼にとって、エコロジカルな表現とは「手に触れることができそうでありながらも精妙で微妙な、周囲を取り巻く雰囲気への感覚」を高め、捉え、伝えようとすることだと述べる。註十それは、人間ならざるものに対する感覚を研ぎ澄まして、それぞれのあり方をリスペクトし、気遣い、必要に応じて自分を相手の調子に合わせていくことが必要だということだろう。モートンには、このような曖昧模糊とした見えない関係性をリアルな体験としてひとつひとつ積み上げて表現していくことで、我々の認知を、二元論を打ち崩すような包括的にものに変えることができるという予感があり、そのための芸術表現が必要だと考えているのだ。
それでは自分らしく生きている種同士の連環を芸術の分野でどのように見つめ表現していくのか? それは現代にいたるまで人間社会を覆い尽くしてきた近代的な自然観に対する大きなチャレンジとなるはずだ。多様な出会いと対話は、分離や限界を乗り越えようとするエネルギーと想像力に満ちて、身体と脳が一体になった具体的な感覚で表現されるだろう。それらは多種、異種そして人間同士の関係性に対する深い示唆を共有し、そこから包摂的で新たな美学がひらかれると期待したい。
註
一 出典:『碧巌録』第五則「雪峰尽大地」、北 宋十二世紀頃
二 末木文美士『碧巌録を読む』岩波書店、2018年、58ページ
三 木村宗凰「法話の窓」大本山妙心寺、https:// ;myoshinji.or.jp/houwa/archive/1282、二〇二四年三月二十四日アクセス
「今月の禅語」承福寺禅語教室、http://www.jyofukuji.com/10zengo/2009/06.htm
二〇二四年三月二十三日アクセス
四 ユスクキュル/クリサート『生物から見た世界』日高敏隆 / 羽田節子訳、岩波書店、二〇〇五年、7-8ページ
五 同、七ページ
六 NHK「ヒューマニエンス 40億年のたくらみ “植物”支配者は周りを動かす」二〇二四年十二月十一日放送
七 日経サイエンス編集部『アントロポセン 人類の未来』、日経サイエンス社、二〇一九年
朝日新聞、「From The New York Times―ニューヨークタイムズから読み解く世界 地球史に「人類の時代」の名を刻むべきか」二〇二四年五月十二日
八 奥野克己、近藤 祉秋、ナターシャ・ファイン編『モア・ザン・ヒューマン マルチスピーシーズ人類学と環境人文学』以文社、二〇二一年
九 Meis, Morgan『ティモシー・モートンが語る。パンデミックという「ハイパーオブジェクト」』So Kitagaw/LIBER訳、Wired 2020.12.29
https://wired.jp/membership/2021/08/10/timothy-mortons-hyper-pandemic-1/、
二〇二四年四月六日アクセス
十 ティモシー・モートン『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』 篠原雅武訳、以文社、2018年、p.66-67. このような態度や表現をモートンは「アンビエント詩学」と呼んでいる。
清水裕子
NPOアート&ソサイエティ研究センター副代表理事。大阪公立大学特別研究員。早稲田大学非常勤講師。社会に関わるアート、環境や気候変動をテーマとするアートを研究、企画に携わる。
An early spring day in a tea room. Entering the small space, a vivid yellow rape blossom sits in the alcove. In the back of the alcove hangs a scroll with a powerful ink stroke that reads, "One-hundred flowers will open for whom?”1 “Ah, spring has come again," I thought about the Zen kōan on the scroll as I imagined the fields of rape blossoms with white butterflies and honeybees flying about on them. The words mean, "In spring, flowers bloom in many colors, but for whom do they bloom?”
When we think of "for whom," we tend to think of things like maintaining one's own seed, or benefiting others, or being useful or advantageous in some way, but what does this really mean in the context of Zen? As Zen kōans are called "questions and answers," which are meant to "reveal and dismantle the fictional nature of our everyday language,"2 they are supposed to be interpreted on a level beyond common sense.
According to this, the question is conclusively antithetical: “Flowers are not blooming for someone else.” They are not blooming for someone else, but each one is blooming in its own way, in its own way, in the state of being itself, which is the most glorious and comfortable state, and that is the most important thing. By doing so, life will be passed on to the next generation, giving nectar to birds, insects, and humans, and bringing blessings to others.3 In this chain of events, to be oneself does not mean to be self-centered and selfish, but to be free to follow the voice of one's true self, and at times to be spontaneous, detached from oneself in the midst of nature of which one is a part.
The coexistence of the two seemingly contradictory states of "being oneself" and "becoming nothing" in this teaching may represent a worldview of repeated dialogue with oneself and others, and the constant flux of these relationships. Underlying this is the attitude of loving the existence of the hundred flowers, praising the life of each of the diverse species in their own way, and paying respect to the activities in which they coexist. In this sense, the question of this axis reminds us once again of the essential thought of being inclusive of the larger world beyond the human realm.
Still, what exactly does it mean for flowers and other living things to "live as they are?" Although there is a limit to what we can actually know about their senses, I would like to refer to a unique study that attempted to analyze how organisms live "as they are" by "looking at it from the organism's point of view," the concept of “Umwelt” (German: Environment). It may appear to be a leap from Zen, but a surprising affinity appears at the root of both.
“Umwelt” is a concept proposed by the Estonian-born German biologist Jakob von Uexküll at the end of the 19th century, based on his observations of specific organisms. According to him, Umwelt is a world in which each species proactively generates its own space and time, and in an environment based on its own rhythms, which it acts upon and controls according to its own perceptions. It is truly an environment for living “as oneself.” Umwelt is not a single environment interpreted by human beings, but an image of diverse interconnected worlds floating in a state of individual bubbles, inside of which each species is free to shine and coexist in its own way.
Although this concept is based on a scientific approach based on observation and analysis that attempts to reveal environments surrounding multispecies, I believe it is based on a more holistic perspective that transcends disciplines. As Uexküll states, "The circumpolar world, as diverse as the animals themselves, offers nature lovers a new world so rich and so beautiful that it is rewarding to wander through it, even if it only opens the eyes of our minds rather than our naked eyes. The world cannot be truly perceived by other species because it is a subjective world constructed by each individual's own perception and behavior (although technological developments in the scientific community are currently clarifying this, including the senses).” 4,5 Therefore, we believe that because it is an unknown world that cannot be fully perceived, Uexküll was trying to access the subjectivity of each species by combining his scientific approach with his keen senses and imagination.
At the end of the 19th century, when biomechanical theory was the mainstream, Uexküll's assertion that "animals would no longer be regarded as mere objects, but as subjects whose essential activity is perception and action."6 Although Uexküll's argument may have seemed strange at the time and was in fact silenced, his viewpoint is grounded in today's perspective. It is an attitude that tries to capture the multiple environments that are generated proactively, with flat respect for each "life" activity, from the viewpoint of diverse kinds of living beings. It is understandable that the approaches of Uexküll are now attracting attention not only in science but also across a wide range of fields such as philosophy and anthropology, and its physical and rich imagery provides a contemporary way of looking at things that inspires ecological thinking for artistic expression as well.
In the 2000s, the concept of the "Anthropocene" was raised.7 This is still under debate, but it is a critical view that a single species, the human, is affecting the earth at a geological level, and furthermore, that the global environmental crisis we face is a consequence of anthropocentrism and overzealous capitalism, which have separated nature from and subjected it to domination by a human-centered perception. As the climate crisis has reached the point where it threatens the survival of all existence, there is a mountain of issues that urgently need to be resolved, and it can be said that the state of human beings and society, which is the biggest factor in the crisis, is being fundamentally questioned.
In this context, it is necessary to look at the reality of a world in which humans, more than humans, and multispecies are intertwined together as components of nature, and to reexamine their interrelationships. It is also inevitable that a variety of studies and theories that seek to recover such relationships are developing in anthropology, environmental humanities, and other fields.8 This is because the process of exploring the interconnectedness of diverse species, their boundaries, and their limits can also be a process of illuminating new (or original) human possibilities for living in the future.
In the age of the Anthropocene, Timothy Morton believes that "non-human things" will become important for the future history and thought of humanity."9 He aims to establish an environmental humanities that is oriented toward new relationships between humans and non-humans. To this end, he focuses on the practice of art as a means of recovering a sense of vitality, the sense that each species is both proactively alive and interconnected, and he attempts to capture this sense by referring to actual poetry, literature, music, art, and other forms of expression. Morton aims to perceive the interconnectedness and reality of everything, including non-living things such as air, water, minerals, and artifacts, but it is extremely difficult to actually grasp the vast expanse of this boundless expanse. This is because it is an attempt to approach the unique subjectivity of each subject's life and to capture the state of relationships that are constantly drifting in time and space. For him, ecological expression is an attempt to enhance, capture, and convey "a sense of the atmosphere that surrounds us, which is subtle and delicate, yet almost palpable.”10 That would mean we need to sharpen our sense of the non-human, to respect and care for each way of being, and to adjust ourselves to the other's tone as necessary. Morton has a hunch that by accumulating and expressing these ambiguous and invisible relationships as real experiences one by one, we can change our perception into something comprehensive that will break down dualism, and he believes that artistic expression is necessary for this purpose.
How then, can we look at and express in the field of art the interconnection of species that are living in their own ways? This would be a great challenge to the modern view of nature that has covered human society up to the present day. Diverse encounters and dialogues, full of energy and imagination to overcome separations and limitations, will be expressed in concrete sensations that unite the body and the brain. I hope these encounters and dialogues will share deep insights into the relationships among various species, varieties, and human beings, towards a new, inclusive aesthetic to come.
Notes
1. "Hekiganroku," Rule 5, "Xuefeng zu daichi," Northern Song dynasty, 12th century.↩
2. Sueki Fumihiko, Reading Hekiganroku, Iwanami Shoten, 2018, p.58↩
3. Kimura Souhu, "Howa-no- Window," Daihonzan Myoshinji, https://myoshinji.or.jp/houwa/archive/1282, accessed March 23, 2024. "Zen Word of the Month," Shofukuji Zen Language Class, http://www.jyofukuji.com/10zengo/2009/06.htm, Accessed March 23, 2024. ↩
4. von, Uexkull, Jakob. Foray into the Worlds of Animals and Humans : With A Theory of Meaning, University of Minnesota Press, 2010. P42 ↩
5. ibid: P42 ↩
6. NHK, "Humanience, 4 Billion Year Plan "Plants": Rulers Move Around," broadcast December 11, 2023. ↩
7. Nikkei Science Editorial Board, "Anthropocene: The Future of Humanity," Nikkei Science, 2019. Asahi Shimbun, "From The New York Times-The World as Read from the New York Times: Should the 'Age of Humankind' Be Named in Earth's History," May 12, 2024. ↩
8. Okuno Katsumi, Shushiaki Kondo, and Natasha Fine (eds.), More Than Human: Multispecies Anthropology and Environmental Humanities, Ibunsha, 2021. ↩
9. Meis, Morgan, "Timothy Morton Speaks. The 'Hyperobject' of Pandemic," translated by So Kitagawa/LIBER, Wired 2020.12.29. https://wired.jp/membership/2021/08/10/timothy-mortons-hyper-pandemic-1/, Accessed April 6, 2024. (original site: Meis, Morgan, “Timothy Morton’s Hyper-Pandemic” https://www.newyorker.com/culture/persons-of-interest/timothy-mortons-hyper-pandemic June 8, 2021) ↩
10. Morton calls this attitude and expression "ambient poetics,” see Timothy Morton, Ecology without Nature: Toward an Environmental Philosophy to Come, translated by Masatake Shinohara, Ibunsha, 2018, p66-67. ↩
Hiroko Shimizu
Vice Chairman of the NPO Art & Society Research Center. Special Researcher at Osaka Metropolitan University. Part-time Lecturer at Waseda University. Involved in research and projects of Socially Engaged Art, and Ecological Art related to the environment and climate change.