ある早春の日の茶室。小さな空間に入ると、床の間には鮮やかな黄色の菜の花の投げ入れ。その奥には力強い墨跡で「百花為誰開(百花誰が為に開く)」1という軸が掛けられている。
「あぁ、また春が来たんだなぁ」と、一面に広がる菜の花畑とその上を飛び回るモンシロチョウやミツバチを思い浮かべながら、軸の禅語について思いを巡らす。「春になると色とりどりの花が咲くけれども、花は誰のために咲くのだろうか」という意味である。
「誰のために」といえば、一般的に自分の種を維持するためとか、他者の恵みになるとか、主客入り混じって、こうすれば役に立つとか有利だとか、我々はつい思ってしまいがちだが、果たして禅語においてはどのような教えなのだろうか?禅語は禅問答と呼ばれるように対話形式で「我々の日常的な言語の虚構性を明らかにして、解体してゆく」2ということで、一般常識を超えた次元の解釈であるはずだから、専門家の解釈に助けを乞うてみよう。
それによると、この問いかけは結論的に反語であり、「花は誰かのために咲いているのではない」ということだ。誰かのために咲いているのではなく、それぞれが自分らしく咲いている、そのものになり切ったありのままの姿こそが最も輝いて心地よい状態で、肝心なことなのだという。そうすることで、命を次世代につなぎ、鳥や虫や人間にも蜜を与えてくれ、他者に恵みをもたらし活かすことに結びつくということだ。3このような連環の中で、自分らしくとは自分中心で我儘ということでなく、本来の自分の声に従って自由に、また時には、自らをその一部である自然の中で無化して自然体であることだという。
この教えには「自分らしく」と「無化する」という一見相反するような二つの状態が共存しているが、それは自分や他者との対話を繰り返し、その関係性が常に流動してゆくという世界観を表しているのだろう。その根底には、百花の存在を愛で、多様な種それぞれが自分らしく生きている命を讃え、それらが共存している営みに敬意を払うという態度がある。そういう意味で、この掛軸の問いかけは、人間の世界を超えて、より大きな世界へ包摂されているという、本来的な思考を我々に再び思い起こさせているのではないだろうか。
それにしても、花や生物の「自分らしく生きる」とは具体的にどういうことなのだろうか?彼らの感覚を実際に知ることには限界があるが、生物の「ありのまま」の生き方を「生物目線で見て」分析しようとしたユニークな研究、「環世界」という概念を参照してみたい。禅から飛躍するようだが、両者の根底には意外にも親和性があるようだ。
「環世界」は、19世紀末にエストニア生まれのドイツの生物学者のヤーコプ・フォン・ユクスキュルが提唱した概念で、具体的な生物の観察に基づいている。彼によると、「環世界」とは、それぞれの種が彼らの知覚に従って作用して制御する、独自の空間や時間、またそのリズムにもとづく環境の中で、主体的に生成されている世界ということだ。それはまさに「自分らしく」生きるための環境と言えるだろう。そして、環世界は人間本意に解釈した単一の環境ではなく、多様な環世界が個々のシャボン玉のようなものに包まれて浮遊している状態の中で、それぞれの種が自由に自分らしく輝いて、併存しているイメージだ。
この概念は観察と分析にもとづいた科学的なアプローチで多種の環境を明らかにしようとはしているが、分野を超えたより総合的な視点によるものだと考える。彼が、「環世界は動物そのものと同様に多様であり、実に豊かで実に美しい新天地を自然の好きな人に提供してくれるので、たとえそれがわれわれに肉眼でなく心の目を開いてくれるだけだとしても、その中を散策することは大いに報われることなのである」4と言っているように、環世界はそれぞれの独自の知覚と行動で構築される主観的な世界であるため、他の種から真に知覚することはできない(現在、科学界では技術的な展開によって、感覚も含めた解明が進んでいるというが)。5そこで、ユクスキュルは、未知の世界へ、科学的なアプローチに加えて、鋭敏な感覚と想像力という心の目を結びつけて、それぞれの種の主観にアクセスしようとしていたと考える。
生物機械論が主流であった一九世紀末に、それまでの価値観を批判的に見て「動物はもはや単なる客体ではなく、知覚と作用とをその本質的な活動とする主体だとみなすことになるだろう」6というユクスキュルの主張は当時としては奇異の目で見られ、実際黙殺されていたようだが、彼のものの見方には今日的な視点が貫かれている。それは多種の存在を生物からの目線で、それぞれの「生」の営みをフラットにリスペクトして、主体的に生成される複数の環境を捉えようとする態度である。このようなユクスキュルの態度が現在、科学だけでなく、哲学や人類学などの幅広い分野で横断的に注目を集めていることも納得できるし、その身体的で豊かなイメージは芸術表現にとっても、エコロジカルな思考をインスパイアする今日的なものの見方を提供してくれるのだ。
2000年代に入って「人新世」という概念が提起された。7これは、まだ議論の渦中ではあるが、人間という単一種が地球に地質学的なレベルで影響を与えており、さらには我々が直面する地球環境の危機が、人間主体の認識で自然を分離して、支配の対象としてきた人間中心主義と、行きすぎた資本主義の帰結だと批判的に見ている。気候危機が全ての存在の生存を脅かすまでになっている現在、喫急に解決が迫られている課題は山積みだが、その最大の要因となっている人間や社会の在り方が根本的に問われていると言えるだろう。
その中で、人間と人間以上の他種(More than Human)や多種(Multispecies)が、共に自然を構成する存在として絡まり合う世界のリアルを見つめ、彼らとの相互関係を問い直す研究や、その関係性を回復しようとする論調が人類学、環境人文学をはじめさまざまな展開を見せていることも必然と言える。8それは、多種との連環やその境界、限界を探ることによって、未来を生きるための新たな(または本来の)人間の可能性を逆に照射するプロセスにもなるからだ。
人新世という新たな時代認識に向けて、ティモシー・モートンは、「人間ならざるもの」が「これからの人類の歴史と思想にとって重要になる」9と考え、人間と人間以外の新たな関係性を志向する環境人文学の確立をめざしている。そのために、彼は、それぞれの種が主体的に生きて、また相互につながっているという、なまの感覚を取り戻すための芸術の実践に注目しており、実際の詩や文学、音楽、アートなどの表現を参照しながら、その感覚を捉えようとしている。モートンは生物以外の大気、水、鉱物や人工物などを含む全てが相互に絡み合って実在する状態を感受することをめざしているが、その限りない膨大な広がりを実際に把握するのは困難を極める。それはそれぞれの主体が生きる独自の主観へ迫ろうとする、さらには時空間で常に漂流するような関係の状態を捉えようとする試みだからだ。彼にとって、エコロジカルな表現とは「手に触れることができそうでありながらも精妙で微妙な、周囲を取り巻く雰囲気への感覚」を高め、捉え、伝えようとすることだと述べる。10それは、人間ならざるものに対する感覚を研ぎ澄まして、それぞれのあり方をリスペクトし、気遣い、必要に応じて自分を相手の調子に合わせていくことが必要だということだろう。モートンには、このような曖昧模糊とした見えない関係性をリアルな体験としてひとつひとつ積み上げて表現していくことで、我々の認知を、二元論を打ち崩すような包括的にものに変えることができるという予感があり、そのための芸術表現が必要だと考えているのだ。
それでは自分らしく生きている種同士の連環を芸術の分野でどのように見つめ表現していくのか? それは現代にいたるまで人間社会を覆い尽くしてきた近代的な自然観に対する大きなチャレンジとなるはずだ。多様な出会いと対話は、分離や限界を乗り越えようとするエネルギーと想像力に満ちて、身体と脳が一体になった具体的な感覚で表現されるだろう。それらは多種、異種そして人間同士の関係性に対する深い示唆を共有し、そこから包摂的で新たな美学がひらかれると期待したい。
註
1. 出典:『碧巌録』第五則「雪峰尽大地」、北宋十二世紀頃
2.末木文美士『碧巌録を読む』岩波書店、2018年、58ページ
3.木村宗凰「法話の窓」大本山妙心寺、https://;myoshinji.or.jp/houwa/archive/1282、2024/3/24アクセス, 「今月の禅語」承福寺禅語教室, http://www.jyofukuji.com/10zengo/2009/06.htm2024/3/23アクセス
4. ユスクキュル/クリサート『生物から見た世界』日高敏隆 / 羽田節子訳、岩波書店、2005年、 7-8ページ
5. 同、7ページ
6. NHK「ヒューマニエンス 40億年のたくらみ “植物”支配者は周りを動かす」2024/12/11 放送
7. 日経サイエンス編集部『アントロポセン 人類の未来』、日経サイエンス社、2019年 朝日新聞、From The New York Times―ニューヨークタイムズから読み解く世界 地球史に「人類の時代」の名を刻むべきか」2024/5/12
8. 奥野克己、近藤 祉秋、ナターシャ・ファイン編『モア・ザン・ヒューマン マルチスピーシーズ人類学と環境人文学』以文社、2021年
9. Meis, Morgan『ティモシー・モートンが語る。パンデミックという「ハイパーオブジェクト」』So Kitagawa/LIBER訳、Wired 2020.12.2 https://wired.jp/membership/2021/08/10/timothy-mortons-hyper-pandemic-1/、2024/4/6アクセス
10. ティモシー・モートン『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』 篠原雅武訳、以文社, 2018年、p.66-67. このような態度や表現をモートンは「アンビエント詩学」と呼んでいる。
清水裕子
NPOアート&ソサイエティ研究センター副代表理事。大阪公立大学特別研究員。早稲田大学非常勤講師。社会に関わるアート、環境や気候変動をテーマとするアートを研究、企画に携わる。
for the eco art studio:
Hiroko Shimizu
In the Interstices of "Selfness" and “Interconnection”
Hiroko Shimizu
An early spring in a tea ceremony room. Entering the small space, a vivid yellow canola flowers sits in the alcove. In the back hangs a scroll with a powerful ink stroke that reads, "One hundred flowers will open for whom?”1.
“Ah, spring has come,” I thought about the Zen precept on the scroll while thinking of the fields of canola with white butterflies and bees flying about on them. The words mean, "Many different colorful flowers bloom in spring, but for whom do they bloom?”
When we think of “for whom” we tend to think that it is for preserving one's own species, or blessing to others, or being useful or advantageous in some way. But what does this really mean in the context of Zen? Zen precept, as it is called “Zen question and answer,” uses a dialogic format to “reveal and dismantle the fiction of our everyday language”2, so it is supposed to be an interpretation that goes beyond our common sense. Let's ask for help from experts.
Accordingly, this question is ultimately a rhetoric, and it means that "flowers do not bloom for someone else." Rather than blooming for someone else, flowers bloom in the state of being themselves, and this state is the most radiant and comfortable, and the most important thing. By doing so, life is passed on to the next generation, and it also provides nectar to birds, insects, and humans, and linked to bringing blessings and making use of other lives 3. In this chain, “being yourself” does not mean being self-centered and selfish, but being free to follow your original voice, and at times to be spontaneous, detached from yourself in the midst of nature of which one is a part.
In this teaching, two seemingly contradictory states, "being yourself" and "detached from yourself” coexist, but this may represent a worldview in which dialogue with yourself and others, and the flux of these relationships is constantly repeated. Underlying this is the attitude of loving the existence of the various flowers, praising the lives of diverse species living as they are, and paying respect to the state in which they coexist. In that sense, the questions of this scroll, remind us once again of the essential thought of being inclusive of the larger world beyond the human realm.
But what does it mean for flowers and other living things to "live as they are"? Although there are limitations to knowing their senses, let me refer to the concept of Umwelt (German: Environment), a unique study that attempts to analyze how organisms live "as they are" by looking at it from the own perspective of living things. It may seem like a leap from Zen, but there seems to be a surprising affinity between the two at the root.
Umwelt is a concept proposed by the Estonian-born German biologist Jakob von Uexküll at the end of the 19th century, based on his observations of specific organisms. According to him, Umwelt is a world in which each species proactively generates its own environment based on its own space, time, and rhythm, controlled according to their perception. It can be truly an environment for living "as they are." And Umwelt is not a single environment interpreted by humans, but an image of diverse interconnected worlds floating in like a state of individual bubbles, inside of which each species shines freely and coexists.
Although this concept is based on a scientific approach based on observation and analysis that attempts to reveal environments surrounding multispecies, I believe it is based on a more holistic perspective that transcends disciplines, as Uexküll states, "the environments, which are as diverse as the animals themselves, offer every nature lover new lands of such richness and beauty that a stroll through them will surely be rewarding, even though they are revealed only to our mind's eye and not to our body's. "4 The Umwelt is a subjective world constructed by each species' unique perception and behavior, it cannot be truly perceived by other species (although it is said that the scientific community is currently making progress in elucidating the world, including the senses, through technological developments)5. Therefore, I think that Uexküll tried to access the subjectivity of each species by opening his mind to the unknown world, combining his scientific approach with his keen senses and imagination.
At the end of the 19th century, when biomechanism was mainstream, Uexküll's critical view of previous values and his assertion that "animals not merely as objects but also as subjects, whose essential activities consist in perception and production of effects”6 was viewed as odd at the time and was actually ignored, yet his viewpoint is grounded in today's perspective. It is an attitude that tries to capture the multiple environments that are generated proactively, with flat respect for each "life," from the viewpoint of diverse living beings. It is understandable that the approaches of Uexküll are now attracting attention not only in science but also across a wide range of fields such as philosophy and anthropology, and its physical and rich imagery provides a contemporary way of looking at things that inspires ecological thinking for artistic expression as well.
In the 2000s, the concept of the "Anthropocene" was raised7. Although this is still under debate, it is a critical view that a single species, the human, is affecting the earth at a geological level, and furthermore, that the global environmental crisis we face is a consequence of anthropocentrism and overzealous capitalism, which have separated nature from and subjected it to domination by a human-centered perception. Now that the climate crisis has reached a point where it threatens the survival of all existence, there are a mountain of issues that need to be urgently resolved, but it can be said that the state of humans and society, which is the biggest cause of these issues, is being fundamentally questioned.
In this context, it is necessary to look at the reality of a world in which humans, more than humans, and multispecies are intertwined together as components of nature, and to reexamine their interrelationships. It is also inevitable that a variety of studies and theories that seek to recover such relationships are developing in anthropology, environmental humanities, and other fields8. This is because the process of exploring the interconnectedness of diverse species, their boundaries, and their limits can also be a process of illuminating new (or original) human possibilities for living in the future.
Toward the new perception of Anthropocene, Timothy Morton believes that "non-humans" will be "important for the future history and thought of humanity," 9 and aims to establish a study of Environmental Humanities that is oriented toward new relationships between humans and non-humans. To this end, he focuses on artistic practices that help us recover a raw sense that each species is proactively alive and interconnected. Morton tries to capture that sense by referring to actual expressions such as poetry, literature, music, visual art and other forms of expression. Further he perceives the state in which everything, including non-living things such as air, water, minerals, and artificial objects, is intertwined and exists in reality. Yet it is extremely difficult to actually grasp the infinite and vast expanse of this, because it is an attempt to approach the unique subjectivity and to capture the state of relationships that are constantly drifting in time and space.
For him, ecological expression is an attempt to enhance, capture, and convey "a sense of the atmosphere that surrounds us, which is almost tangible, yet subtle and delicate.” 10 That would mean we need to sharpen our sense of the non-human, to respect and care for each way of being yourself, and to adjust ourselves to the other's tone as necessary. Morton has a hunch that by accumulating and expressing these ambiguous and invisible relationships as real experiences one by one, we can transform our perception into more comprehensive that will break down dualism, and he believes that artistic expression is necessary for this purpose.
How then, in the field of art, can we look at and express the interconnection of species living in their own ways? This would be a great challenge to the modern view of nature that has dominated human society up to the present day. Diverse encounters and dialogues will be expressed in concrete sensations that unite the body and the brain, with full of energy and imagination to overcome separations and limitations. I hope these encounters and dialogues will share deep insights into the relationships among various species, multispecies and human beings, and further open up towards a new, inclusive aesthetic.
Notes
1. "Hekiganroku," Rule 5, "Xuefeng zu daichi," Northern Song dynasty, 12th century.↩
2. Sueki Fumihiko, Reading Hekiganroku, Iwanami Shoten, 2018, p.58↩
3. Kimura Souhu, "Howa-no- Window," Daihonzan Myoshinji, https://myoshinji.or.jp/houwa/archive/1282, accessed March 23, 2024. "Zen Word of the Month," Shofukuji Zen Language Class, http://www.jyofukuji.com/10zengo/2009/06.htm, Accessed March 23, 2024. ↩
4. von, Uexkull, Jakob. Foray into the Worlds of Animals and Humans : With A Theory of Meaning, University of Minnesota Press, 2010. P42 ↩
5. ibid: P42 ↩
6. NHK, "Humanience, 4 Billion Year Plan "Plants": Rulers Move Around," broadcast December 11, 2023. ↩
7. Nikkei Science Editorial Board, "Anthropocene: The Future of Humanity," Nikkei Science, 2019. Asahi Shimbun, "From The New York Times-The World as Read from the New York Times: Should the 'Age of Humankind' Be Named in Earth's History," May 12, 2024. ↩
8. Okuno Katsumi, Shushiaki Kondo, and Natasha Fine (eds.), More Than Human: Multispecies Anthropology and Environmental Humanities, Ibunsha, 2021. ↩
9. Meis, Morgan, "Timothy Morton Speaks. The 'Hyperobject' of Pandemic," translated by So Kitagawa/LIBER, Wired 2020.12.29. https://wired.jp/membership/2021/08/10/timothy-mortons-hyper-pandemic-1/, Accessed April 6, 2024. (original site: Meis, Morgan, “Timothy Morton’s Hyper-Pandemic” https://www.newyorker.com/culture/persons-of-interest/timothy-mortons-hyper-pandemic June 8, 2021) ↩
10. Morton calls this attitude and expression "ambient poetics,” see Timothy Morton, Ecology without Nature: Toward an Environmental Philosophy to Come, translated by Masatake Shinohara, Ibunsha, 2018, p66-67. ↩
Hiroko Shimizu
Vice Chairman of the NPO Art & Society Research Center. Special Researcher at Osaka Metropolitan University. Part-time Lecturer at Waseda University. Involved in research and projects of Socially Engaged Art, and Ecological Art related to the environment and climate change.